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屋代郷に関しての?

屋代郷(現高畠町の辺り)は江戸時代度重なる領主(管理者)の交代を受けてきました。しかし、これが資料によってまちまちではっきり したことがさっぱりわからないのです。 景勝時代は高畠城代に大国氏が配されていたことから米沢藩初期は上杉領であったことは間違えないようですが、 その後、寛文4年に上杉家が15万石の減封処分を受けた際に割譲された所領が伊達・信夫郡12万石、置賜郡のうち 屋代郷3万石(歴史と旅「藩史物語」等)とあります。よってこのときから屋代郷は上杉家の支配から外れたと思われ るのですが、しかし、これとは反対に寛文4年に上杉領となったとの事実があるのです。それというのは 寛文4年に屋代郷が上杉領となり、当時財政難に苦しんでいた米沢藩による過当な年貢徴収を危惧した領民が立ち上 がり高梨利右衛門が直訴に及び3年後再び高梨利右衛門の命と引き換えに天領に戻ったとあるのです。これについては高畠町 に碑が残されているので疑いのない事実のようですがこれではまったく両者正反対の 歴史となってしまいます。これ以上の資料がないので、しいて考えられるのは半知により没収された屋代郷がその後直ぐ幕府より表高の加増は無しに上杉家に 再仕置を許されたものの、領民はそれを潔しとせず直訴に及んだのではないかということくらいです(しかし、ちょっと 無理がある推理のような気がしますが)。 寛文以降の屋代郷の歴史については管理人臨雲白龍様に 問い合わせたところ以下の回答を賜ったので紹介します。
屋代郷(現在の高畠町あたり)は寛文から元禄まで米沢藩の預り地、その後、幕府の直轄支配。寛保2年再び 米沢藩預り地、明和4年に上州小幡から織田氏が高畠城に転封され屋代郷を支配。織田氏は天保元年に天童 へと移封。嘉永元年から三度目の米沢藩預り地となり、文久2年幕府へ屋代郷の支配を願い出て許される。翌文久 3年米沢藩の支配を拒む屋代郷の一揆を鎮圧、直接支配とする。その後落ち目の幕府に要求し続け慶応二年に 屋代郷を正式に米沢藩に編入(屋代郷3万石表高の加増)。
しかし屋代郷は旧主伊達氏への思いや天領としての誇りが高い地域であり、江戸時代を通じて困窮した米沢藩が 強いる重税に抵抗し続け米沢藩をてこずらせてきました。以上
臨雲白龍様は受け売りと謙遜されながらも、かなり細かい屋代郷の歴史を紹介くださいました。ここに改めて感謝申し上げます。

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