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〜文化武鑑〜
上杉家の格式について


嫡流:藤原北家良門流
上杉氏始祖:藤原重房が宗尊親王の鎌倉下向将軍就任の折に、 賜った丹波国何鹿郡上杉庄の地名より上杉左衛門尉重房と称したのに始まる。
その後、上杉氏は扇谷・山内・託間・犬懸と四家に分かれるが足利家と外戚であったことから、 関東越後にかけて守護、幕府の要職を担う。
しかし、室町幕府の衰退とともに上杉家の勢威も衰退する。 このような戦国の動乱とともに山内上杉家上州平井城主関東管領上杉憲政は相模北条氏の侵略に耐えられず、越後守 護代長尾景虎(後の謙信)を頼り越後へ向かう。
その後上杉憲政は上杉の名跡と関東管領の職を長尾景虎に譲る。
この鎌倉以来の上杉氏及び、戦国の雄として名を馳せた謙信公を祖とする出羽米沢藩上杉家は江戸時代を通じて、諸大名の中でも由緒ある名門と位置づけられていた。

家紋:
丸に竹雀(定紋) 菊御紋 五七桐


居城:米沢城(江戸より75里)
所領:出羽国うち置賜郡15万石
家格:国主(※国持ち大名)・参府御暇節上使は老中
官位:従四位下侍従
詰間:大広間
諱名:殿上元服、将軍家より1字を拝領(これは家格上位の一部の大名に限られていた)
行列:前隊・中隊・後隊 計数百人の編成
槍印:

旗印:
「毘」の御旗 天賜の御旗

原図は「藩史大事典」記載の図を元に描いたものである


上杉家の家格に関する逸話:上杉景勝(謙信養子)が豊臣秀吉の御世、前田利家と挨拶の順序について揉めたとき、自身は管領上杉の名家であるとして利家の上席であることを主張し、 わざわざ国元より系図や宣旨をとりにやらせたという話しである。
上杉綱勝(景勝孫)元服の折、同じく元服の儀式に臨む毛利、細川家の嫡男で順番が争われ、毛利家の記録に寄ると工作の結果上杉家には及ばなかったが細川家より先になることが できて面目を保てたとある。

※前田、島津、伊達、細川、黒田、浅野、毛利、鍋島、藤堂、鳥取池田、岡山池田、蜂須賀、有馬、山内、佐竹、上杉の16家

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